母方の祖母との記憶

祖母は年を感じさせない人で、挙動もきびきびと無駄がなく、すらっと細いスタイルで、おしゃれにも余念がなかった。祖父がいなくなっても、祖母はずっと一人で暮らし、踊りの先生を続けていた。私の住んでいる町の方でも教室があるらしく、夕方あたりに一人で家にいると電話がかかってきて、「いま近くにいるから、ご飯食べに行こう」と誘ってもらうことがあった。家にタクシーで迎えに来てくれて、教室終わりだったので祖母は着物を着ていた。ご飯は以前からよく祖父と行っていた、いつもの徳川だった。会話はあまり覚えてないが、祖母はよくご飯を食べた。父方の祖母は一緒に住んでおり、ごはんを食べに行くと決まって、料理の半分ほどを私や父に寄こしてきたので、おばあちゃんは小食なんだと思っていたため、その印象が残っているのだ。

実家近くの祭りで、餅まき係を担当したこともあり、こっそり私に餅を握らせてくれたこともあった。

一度、温泉にも連れてってもらったことがある。デオデオに併設されたデゆデゆだ。祖母はいつも大量の荷物を持っていた。いつもはなにも気を遣っていなかったのだが、その日は気まぐれに、「荷物持つよ」と声をかけた。祖母は「じゃあお願い」とだけ言って、渡した。特に喜んでいる様子はなかったのだが、家に帰ってみると母は「今日、おばあちゃんの荷物持ってあげたん?」と聞いてきた。祖母は人に頼るのが苦手というか、クールな女性という印象だったので、その祖母がそんな些細なことを母に伝えるんだと意外に思っていた。これが私が覚えている唯一の親孝行だ。

また、少し破天荒な部分があり、長男が県内最難関の進学高に受かったとき、「まぐれよ」と言い放ったらしい。母が祖母を叱っていた。

 

そんな祖母だったが、2017年あたりから何度か入退院を繰り返しており、ヘルパーさんに手助けてしてもらいながら、なんとか生活していた。お寺さんがいらっしゃるときに祖母と顔を合わせてみると、髪の毛がくしゃくしゃで、パジャマでベッドに寝ていた。顔を合わせると「元気?今、大学何年生かいね?母さんからお小遣いもらってね」と声をかけてくれた。そんな祖母を見て、特に感想を持たなかった。

祖母は、新しいものをすぐに購入し、冷蔵庫、洗濯機などを次々に買い替え、母が買ってきたものをまた買い足したりしていた。祖母は母にいつも怒られていた。母は祖母の面倒を見ているため、父もあまりそれを止めなかったし、私も何も言わなかった。

祖母が入院してから、何度かお見舞いに行った。お見舞いでは、祖母と軽く会話しただけで、兄から「これが最後かもしれんので?」と心配されたほど、口が重かった。正直、私は大学に行く必要があまりなかったので実家に帰り、お見舞いに毎日でも行けたのだが、親に「ありがとうね」といわれるのが嫌だった。最期が近い人のそばにいること以上に大事な用事が、大学生の私にはないように思えた。

祖母が亡くなる日、私は友人とカラオケにいき、銭湯に入っていた。祖母が今夜、山を迎えることは遊びに行く前に聞いていた。私は看取るための連絡を取ろうとせず、亡くなったという報告をただ待っていた。自分でも何がしたかったのか、意味が分からない。遠く離れていても、連絡はとれるというのに。銭湯に入りながら、何度もスマホの通知を確認しに出たのに。しかし、後悔はあまりないと思う。このことから、私の祖母への愛情の少なさがわかるだろう。

葬式のため、急遽帰省した。これも、兄弟がみな急いで帰ると連絡したのを見てから、行動したため、一番近いのに一番遅く到着した。お別れの前夜、祖母との最後の時間を過ごしたが、祖母の顔はちらりとしか見なかった。面会でも積極的に話さず、お見舞いも最低限しか行かなかった自分が、一丁前に涙を流すのは、自分勝手な気がした。というより、母が泣いている姿を見て、私がそう思ってしまった。母が仕事の合間を縫って、祖母の看病に行っていたのはわかっているつもりだったが、何故その涙を生きているうちに、やさしさに変えられなかったのかと思った。祖父の葬式の時のことを思い出してなのかわからないが、次の日の花の手向け、出棺される前でさえ、涙がこぼれることはなかった。

 

後日、祖父と祖母の家を整理しに行った。私は、貴重品整理という名目で、はやっているパールネックレスをもらうため、探し回っていた。いくつかのアクセサリーをもらったのだが、自分のやっていることは泥棒を一緒なのではないかと思ったと同時に、一生とは何なのかとも思った。その家にはそこら中に祖母が生活していた形跡が残っていた。当然なのだが、その住人はもういない。うまく言葉にできないのだが、化粧台の引き出しに残るベビーパウダーや、踊りに使っていたであろう様々な扇子、積み上げられた洋服、食器棚にかけられたお薬カレンダー。どこを見ても、祖母が使っている様子が思い浮かぶのだが、その本人とはもう二度と会話を交えることはできない。積み上げてきた人生の記憶である貴重品や洋服、書類は、ごみ袋か私のポケットへと分別されている。その分別に異議を唱えることもできずに、ただただ淡々とした作業だった。

そんな中、母の中学のアルバムや、兄が小学生のころに送った手紙が出てきた。祖母の衣装ケースのある一段の貴重品からまぎれて出てきた。母に手渡すと、少しだけ嬉しそうに父と思い返していた。

 

いくつかもらった祖母のアクセサリーは遊びに出かけるときに、お守り的な意味でつけている。祖父の使っていた腕時計も電池を交換し、友人から譲ってもらったDWの時計と入れ替えている。「人に忘れられた時が本当の死」というような言葉をどこかで耳にしたことがある。私は祖母・祖父との思い出はもう薄れてしまったが、二人の面影だけはいつまでも残していたいと思った。