天然パーマと学生時代の記憶

がく私は天然パーマを患っている。

 

よくストレートの方に「パーマかけんくて、いいな~」といわれるが、私の朝の髪の毛を見れば顔面蒼白するだろう。天パを生かせている人もいるが、安易にこのようなことは言わないことをお勧めする。振り返れば私の思い出は天パでくるくるに拘束されていた。

 

中学生とは、人生において最も不安定で不平等で、不可思議な社会である。多くの男女は性と向き合い、親に歯向かい、自分の軸を形成していく。この年で、自殺者が多いのは、心の形を知らず、守りかたもわからないまま、他人からの刺激を過剰に知覚してしまうためであると考える。小学生では誰もが心の動くままに他人を知ろうという好奇心に任せて、どんな人でも興味を示すことができるため、誰とでも仲良くできる。しかし、中学校では体のみ急激に大人に近づいてしまうため、小学校での経験をもとに自分を持たざるを得なくなる。そうでなくては、見た目と性格の不一致が起きてしまい、勝手に失望されたり、叱責を受けることになるためだ。

 

ようやく、私の中学での思い出が話せると思ったのだが、こころについてもう少々捕捉したい。

こころとはそう簡単に形成できるものではない。大人になっても「自分探しの旅」に出る人がいるほど、人は不完全な生き物である。人はいくつかの小規模な社会(小・中学校、高校・大学)を経験し、誰に対しても一定の対応で反応し、それで受け入れてもらえなければ終わりだったが、人によって態度を柔和に変化させるという方法を学ぶ。つまり、人とは一つではなく、多面的な部分を備えており、その向き不向きが多少異なる程度の差があるのみなのだ。地元を離れて暮らしてみた人はわかると思うが、大学の友人との会話と中高の友人とでは接し方が変わるのだ。どんな人でも変化し続けており、久しぶりに友人と会って、「こいつ変わらないな~」と親しみを覚えることもあるだろうが、それはその友人が過去の自分を思い出しつつ、それを演じているからに他ならないだろう。

 

ようやく私の海馬の出番が来た。私の中学での思い出を話そう。

中学校はよくあるいくつかの学区をまとめたクラス編成になっており、小学校の知り合いが半分ほどであった。クラスは4つで、1クラス40名ほどであった。例にもれず、私の学校でもヤンキーが猛威をふるっていたわけだが、となりの中学のヤンキーがわが校に出向いてお話定例会をしばしば開いていた。

中学での私の髪の毛は「ちりちり」とよく称された。キューティクルはすべて死滅しており、床に落ちていると、陰毛との区別は悲しいくらいにつかなかった。熟練した鑑定士である私にかかれば、毛の細さの違いで判別が可能であったが、他人から見れば、わいせつ罪に近しいだろう。

そんな髪の毛で、その定例会の前を通り過ぎていると、「ハチの巣」と聞こえてきたのだ。何人かで歩いていたので、私ではないだろうと薄ら笑いで、友人と確認してみると、一目瞭然だった。しかし、これはまだ軽いほうだ。

 

高校に入っても、私の髪の毛は悪化の一途をたどっており、坊主一択だった。少し伸ばしてみるかと、おしゃれ心に目覚めたのが、運の尽きであった。その高校は県でも上位の偏差値で規律に厳しく、頭髪検査を長期休み明けに行っていた。いつになっても色あせることのない思い出が出来上がってしまうわけだ。

私は模範生とまではいかないが、授業中睡魔と真剣に戦い、偏差値は学内平均をわずかに上回るほどの、圧倒的一般生徒であった。にもかかわらず、その日の頭髪検査を行っていた生徒指導の教師に「それはパーマか?」と聞かれた。おそらく私は「いえ、天パです」と模範的に答えたのだが、その時のことを思い出すたびに、反発しなかったことを後悔し、その教師に道徳性やら、人間性やらを非難したという風に記憶を上書きしていたため、あいまいになっている。

5年たった今でも、この出来事を思い出すたびに頭に血が上り、昼食後の和やかで恒久的な授業中でもアドレナリンで目をバキバキに翻すことが可能なほどだ。先生がいつもどんな時でも清く正しく生きる必要はない。一般よりも少しだけ手本になる所作が多いくらいでよい。

 

私の両親は二人とも教職に従事しており、帰宅して、だらけるている姿を見たことがない。父は朝早く、私が起きるのと同時に家を出発し、私が夕飯にありついているときに帰宅する。帰ってからも部屋にこもり、パソコンで仕事をしている。その背中を横目に通り過ぎることが多かったが、休みになると、兄弟3人を連れてキャンプや公園に連れて行ってもらっていた。今考えればこれほど子供を愛し、自身の時間を犠牲にしている人がいるのだろうか。母も父よりかは職場が近いので、少しゆとりがあるが、とても忙しくしてくれていた。夕飯は祖母が主に面倒を見てくれていたが、それを祖母はあまりよく思っていなかったため、帰っても「おかえり」を言ってもらえることは少なかった。それでも総菜をいくつか見繕ってきて、祖母の小言を軽く受け流し、私の食卓へと運んでくれいた。どちらかといえば母の方が居眠りをしているのを見るのが多かったが、私の学生生活で不自由したことは何一つなかった。

 

こんな完璧な人を求めているわけではない。しかし、容姿など簡単に変えられない部分は、人が自分の恥ずべき点であると自覚している多い。こんなことは20代前半で、親に甘やかされ続けてきた私でも理解している。それを県で有数の進学校である生徒指導の教員が知らずに続けていられるのか。

教員は多忙を極め、高校教師は詳しくもない部活に強制的に配属され、夏休みも土日もないと教員の友人に聞いたことがある。それを理解したうえで私はあの指導教員が許せないのだ。

その教員は生徒指導担当の中では若いほうで、おそらく40後半くらいであった。顧問している部活の生徒からの信頼も厚く、陽気で多くの生徒から好印象を受けていた。私はあまり会話したことはなかったが、いい先生だと認識していたため、その段差はかなり激しかった。勝手に理想を作り上げていた私も悪かったのかもしれないが、そうであったとしても、あまりにひどい言葉だった。

 

過去のトラウマと向き合うことは、苦しいものがあるが、私はすっきりしたような気がする。頭の中では何度も復習したわけだが、言葉に直してみると、いろいろと見えてくるものがあった。