サウナ

私はサウナが好きである。

 

とはいえ、サウナにはまったのは最近の話で、いくつかの理由が挙げられる。進学した先がたまたま温泉が有名であったこと、大学進学で深夜に友人と遊びに行けるようになったこと、学部でたまたま知り合ったその友人がかなり強引で腰の重い私を執拗に勧誘してくれたことからだと思う。

 

サウナで汗をかくことはもともと好きで、小学生くらいのころから入っていた記憶はある。しかしそのあとの水風呂がどうも苦手意識があり、入っても下半身までと、まぁよくいる一般人だった。私が必死で耐えている横でおじさんたちが大きな波を立てて入ってきた日には、私は飛び上がって逃げたものだ。

 

友人は所謂サウナーであり、サウナで汗をかき、水風呂に肩までつかり、ベンチで休憩する「1セット」を何度か繰り返していた。私は子供のころから何も成長しておらず、足までしか入らないでいると、友人は当然のごとく水をかけてくるのであった。

 

こうして文章にしてみると、客観的に見えてきて、こんなやつとはあまり関わりたくないように思えてくるのが不思議だ。嫌がる人の顔をみて、喜んでいるわけなのだから。しかし、こんなものは男子大学生の間では日常だろう。社会人になってこのような知り合いがいるのなら、少し交友関係を見直す機会が必要があるだろう。

 

とはいえ、この性悪に見える友人のおかげで、気づけば肩までつかれるようになっていたのも事実なのだ。上の文章を読んでわかるように、私は肩までつかりたいという欲望を持っていたようだ。でなければ、「つかれる」などとは書かないだろう。

 

よく占いなどで「深層心理」という言葉を耳にする。自分の気づかない心の奥底に眠る感情をいくつかの質問から判定するというものだ。人は無意識のうちに、自分の損得を考える生き物であるから、その深層心理というものはとても意地汚いものだろうと思っていると、意外とかわいい面が見えてきたりするため、男女で遊ぶとき、話題が文字通り枯渇した時などには、大変便利だったりする。

 

話を元に戻すと、私は気づいたときにはサウナーになっていた。サウナ室に入ったら、できるだけ奥・最上段に陣取り、友人と入っても、会話は最小限に控え、自分との対談に没頭する。サウナはできる限り熱く、7、8分くらいで限界に達せるような温度(ここでは100~110℃とする)が心地よいと感じ、水風呂の温度も入ってみると大体の温度を言い当てられるという特技を会得した(サウナーなら大抵できる。と書いておいて、あえて読者をふるいにかけておこう。これからの文章の難解さの布石として。)。そして、サウナーたちの楽園である、「ととのい」の環境は自分の理想とするものにどれだけ近いかで評価した結果を議論できるようになった。今夜行く銭湯の判断基準は風呂の種類ではなく、サウナ環境の良さで決定するようになっていった。

 

ここで私の理想のサウナを供述しておこう。(ここだけ箇条書きを許してほしい)

・サウナ室

温度は110℃。普段は少しドライよりで、30分に1回オートロウリュ(大阪 ニュージャパン梅田のイメージ)、1時間に1回アウフグース。3段以上あって、背中が寄りかかれるほど席の奥行がある(どのような方法があるか思いつかないが、背もたれが熱くならないように工夫したい)。内装はレンガか木張り。照明はオレンジの灯りが最小限で、少し暗いかな~という印象をもつ程度(熊本 湯らっくすのメディテーションサウナのイメージ)。テレビはいらないが、耳をすませば、かすかに聞こえる程度のBGMはあった方がよい(京都 サウナの梅湯のイメージ)。

 

・水風呂

非常に悩ましいところではあるが、12℃、バイぶらつきで手を打つとしよう。イベントを設けて、シングルになる日もあるというのもまた面白いだろう。給水口は通路側にためるという構造で、サウナ上がりの人が水を汲みやすいようにする(名古屋 楽の湯)。どうにかして、水を浴びないと入水できない設計を考えたい。水風呂は端っこではなく、どちらかといえば真ん中よりに配置して、風通りを意識したい。

 

水風呂の水温というのは1℃変わるだけでかなり変わるもので、自分に合った温度を見つけるのに一生を捧げた人もいるほどである。サウナの水風呂というのは、食後のデザート、モノトーンコーデにカラーソックス、賃貸アパートに間接照明などと並ぶほど、充実感に大きな影響を与えるものであるのだ。ここに力を入れないサウナ施設はどれほど頑張ってもトップは狙えないだろうといっても過言ではない。

 

また話がそれていくのだが、水風呂は滝行に励む場所ではないし、シンクロナイズドスイミングを演じても喝采を受けられるような場所ではないということを明言しておきたい。簡単な言葉に直すと、潜る・給水口から注がれる水を汚してほしくないわけである。サウナーなら、みな読破しているはずだろうが「サ道」では人がいなければ、水風呂であおむけに浮かんでもよいという表現をされていた。しかし、私はそれに断固とした態度で反対したい。もちろん私だって、水風呂には頭の芯までつかって「ぷは~」と一声上げたい気持ちはあるが、人が使っているのを見ると心がまいってしまうのだ。衛生的な面で見ると、おそらく浸かった人のほうがデメリットが大きそうではあるのだが、皮膚が水に触れるのと、体液などが分泌される器官が3つもある顔をつけられるのはあまり見たくないものだ。女の子の肩を持つのと、頬をなでるのでは、まったく関係性が異なることがイメージしてもらえるだろう。「体」という漢字を見て、頭部も含めた全部位を思い浮かべるだろうか。いや、おそらく肩より下を「体」と表現するだろう。このように頭部というのはひとまとまりにするべき部位ではなく、なにか特別な意味を持つものであることがわかるだろう。つまり、人にとって、体とは違うものである頭部を触れさせる前に一度考えてみてほしい。

 

さぁ、長かった道のりも終わりが見えてきた。最後にして最大のこだわりポイント、

・ととのいスポット

なによりも風通りの良さ。心地よい程度の新鮮な風が必要だ。冬は少し寒く感じる人がでるかもしれないが、それは水風呂に入る時間を調整すればよい。私はその調節のために、サウナで体との交信を密接にするために集中を怠らない。ベンチは木材の長椅子。背もたれがあればよりよいが、正直建物の壁でも事足りる。BGMは自然を感じられるもの(佐賀 らかんの湯)。できれば露天風呂に注がれるお湯の音を聞いていたいのだが、その音は少し心もとないだろう。リクライニングがあると「お、こだわっているな」と思うのだが、快感にそれほど大きな差はないように感じる。念を押しておくと、あるに越したことはない。

 

ここから先は愚痴になるのだが、ベンチに水を流さずに去ってしまう人がいる。そういう人は大抵サウナについて詳しくはないため、タオルも持ち入らず、貸出マットが余っているにもかかわらず、何も敷かずに座っている。その人の汗がタオルを貫通して、席にまでしみているのを見ると、すぐに退出したくなる。知識のない人ほど、なにかこだわりがあるというのが最近のわたしの気づきだ。

 

私自身の話なのだが、大学に入りたてで、おしゃれも知らないため、毎日の登校の服は組み合わせも考えず、好きなものを着ていた。もちろん友人に「ダサい」といわれるわけだが、謎の自信があり、もう一人に聞いてみて初めて、納得するのだ。不思議なものだが、なぜか「自分はおしゃれ」だと信じてやまなかった。勉強を全くせずに、試験日になって出てくる自信に似ている。

 

この話で伝えたいことは、「知識の浅い人は選択肢がないため、我流に走る」ということだ。まったく非合理的であるとしか言いようがないのだが、これが事実なのだ。日本人は周りに合わせるのが得意だとよく言われるが、モラルやルール以外だとあまり適用されない。なぜ一番簡単な「周りの人を見て、その人の真似をする」ということをせず、自分を信じて突き進んでしまうのだろう。

 

ここまで自分のサウナにはまった経緯、こだわりを羅列してきた。自分は趣味といえるものがなく、ただYoutubeで時間を怠惰に消費してきたわけだが、サウナをきっかけにいろんなことに挑戦して、一人の時間を有意義に過ごせるようになった。私の人生の目標は、フィンランドに1か月滞在することだ。コロナが収まるのが待つばかりだ。